182日目の景色
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秋山慎也の履歴書|社会人になるまで

少年時代のこと

自己紹介画像

私は、1980年島根県の沖合い70kmに浮かぶ島、隠岐の島で生まれました。
父はタクシードライバー、母は専業主婦をしている家庭の長男でした。
とても内気な子で、自分に対する自信はなく、いじめられっこでしたが、とても我慢強い面はありました。
小学生までは、野山を駆け回り、活発に遊びまくっていました。
野球大好き、将来はプロ野球の選手になるために、毎日壁に向かってボールを投げていました。
小学3年生、夏休みに骨折をして太り、運動神経が悪くなりました。
はじめの人生の転機でした。
それ以来、より内気になり、鈍足のため、どちらかというと本を読むことが好きになりました。
小学校5年生の時には、学年でも一、二位を争う鈍足、100m走るのに23秒もかかりました。
だから、足の速い人たちが入る陸上部に、鈍足の中では唯一私だけが参加し、小学生の間に5秒タイムを縮め、100m18秒で走れるまでになりました。それでも、足は遅いほうでした。
学業優秀だった中学時代
中学校に入ると本当は野球部に入りたかったのですが、家のお金がないため、あまりお金のかからないバレー部に入部しました。
いろいろありましたが、楽しい中学時代をすごしました。
小学生の後半から学業優秀で、児童会長などもやっていましたが、中学になってからはますます顕著になって、学力テストなどは同級生120人の中でほぼすべてのテストで1位でした。
中学3年生の時には、生徒会長もやりました。
でも、根底にあったのは、父母からの承認を得るための学業でした。

唯一模範生、よい子であることが、私にとっての存在価値のようでした。
私は、自分のことが好きになれませんでした。
本当は消えてなくなりたかったけれど、ビビリなので死ねなかった、これが本音です。
そのころ、毎晩のように父が母に暴力を振るうようになり、毎晩母からの相談をうけていました。
一度は、弟と母と三人で祖母の家に夜逃げをしてその日のうちに父が迎えに着たり、父が母に暴力を振るうのをとめてもらいに1キロほど離れた祖母のうちに雪道を裸足で走っていったりしたこともありました。
苦しさとやるせなさと、一方で自分を悲劇のヒロインのような自己憐憫に陥る快感に浸る毎日でした。

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中学卒業・父母の離婚・本土の高校へ

成績優秀だった私は、中学校卒業し本土(県庁所在地のある松江市)にある進学校に進みました。
ちょうど高校の合格発表の日に弟を連れて母と最後の夜逃げをしました。
そこから先、どのようにしていたかは、あまり覚えていません。
父が発狂して鍵のかかった祖母の家のドアをドンドンする音を聞いていたこと、そして岡山にあるおばさんの家と大阪にある祖父の家を転々として時間をすごしたのを覚えています。
中学の卒業式には出席しましたが、時系列で何がどうなっていたかは、よくわかりません。
そして、晴れて高校生になりました。
お金はない中の寮住まいで、奨学金をもらいながら、できるだけ親には頼らない暮らしをしました。
門限やテレビの視聴制限なんかもあり、外泊禁止だったり、タバコが見つかって2回も停学になったりしましたが、とても楽しい高校時代を過ごしました。
センター試験で失敗をしたため、夢だった都内の公立大学には進学できず、浪人もできないため、安全パイの埼玉にある公立大学に進学しました。激貧でしたので、何とか入学料と授業料は免除してもらいました。
ここでも劣悪な環境の寮に入り、親からの仕送りはもらわないで、アルバイトをして生活をしました。
「こんな最悪な寮を出て、一人暮らしをしたい」
私は、当時学校の周りで一番お金を稼げるバイトを見つけました。
家庭教師のトライのスタッフでした。

 

家庭教師のトライからスタートした仕事人生

そこから私の「仕事人生」はスタートします。
毎日学校が終わってから週5日以上毎日働いて、2ヶ月で寮を出て一人暮らしをしました。
家庭教師のトライは、一部の社員は大人ですが、ほとんどのスタッフが大学生です。
しかし、お客さんはそのことを知らないので、ほとんど社会人と変わらない仕事をし、毎月20万円近くの給料をもらっていました。
一般的にみなが嫌がる仕事を私は大学生のときからやってきました。
テレアポ、路上勧誘、営業。
先輩から毎日どやされながら、追い込まれながらも楽しく毎日を過ごしましたし、成績はいつも優秀でした。
ただ、なんとなく家庭教師のトライ人生を生きている人とは交わることができない感じでした。
とても大変でしたが、大学に通いながら自活できたことは、私にとっては大きな自信となりました。
大学3年生になると授業が週に2日になったので、いまいち馴染めないトライをやめて、アデコの派遣社員として企業のコールセンターで働くことになりました。
土日を入れれば、週に5日働ける上にトライよりも仕事が楽で時給も1.4倍くらい高かったのは大きな理由です。
このころの私は、一般的なサラリーマンと同じような考え方が出来上がってきているところだったと思います。
毎日電車で通勤して、なんとなくお金のために仕事して、どうせだったらめいいっぱいやってやろうと、一生懸命働いていました。
でも、毎日が満たされることはなく、ただなんとなく毎日を過ごしていました。
仕事が終わって帰って酒飲んで眠る。
自分を好きになることができず、ニヒリズムに傾倒して、死ぬことを考えたことが何度もありました。

自分のことが好きになれないから、彼女もできなかった。
私の人生においてとても楽しい自由なときでもあり、とても苦しいときでもありました。

 

人生の大きな転機となったヤフーBBのスタッフ

そして、大学4年生の冬、人生を変える仕事先に派遣されることになりました。
ヤフーBBのキャンペーンスタッフです。
千葉の幕張メッセで多くのスタッフに向けて、孫正義さんの講演を聞きました。
今まで参加したことのないような大きな大ホールで、たかだか派遣社員への説明会でこんなにたくさん人を集めて話をするのかとびくびくした会場の中で、孫社長は熱く語りました。
「スケールが違う・・・。」
はっきり言って、びびりましたし、しびれました。
ビジネスってこんなにすごいのかって思いました。
何がって、孫社長が話していた、日本のブロードバンド化が遅れているので、ソフトバンクが通信革命をするんだという話・ビジョン、そのために、無料でモデムを配って、無料でADSLを試してもらって、無料でIP電話を使ってもらうんだっていう施策までです。
そして、スタッフには高額なインセンティブがもらえるということでした。
よくわからないながらも、インセンティブに惹かれたのも事実でしたが、心が熱くなり興奮したのを覚えています。
研修を終え、私はいろいろと回った中で、最終的に埼玉県の川口駅の近くにあるヤフーBBショップでキャンペースタッフとして定着することにしました。
一緒にスタッフをしていた友人が、成績を上げるのに最適な店だよと教えてくれたからです。
そのお店は、店長が開発した独特な手法で、川口駅前でモデム配りをして成果を出していました。
とても画期的なノウハウで、私も即ものすごい数字を出せるようになりました。
そして、あっとういうまにチームのリーダになることができました。
私たちのチームは、店長と私と友人でいろいろと工夫を重ねて、日本で一番モデムを配ることができ、孫正義社長から高額インセンティブをもらうこともできました。

その経験は、私にとって本当にすごい経験となりました。
目標を決めて、結果を出して、残りの時間は派遣されてくる女の子とお茶をして時間をつぶし、終わったら居酒屋に行く。
そんな毎日を過ごしました。
しかし、まだ私の頭は、その前の派遣社員時代から作られていた、一般的なサラリーマンと同じで、折角いただいたソフトバンクからのリクルートオファーも、結局すでにテキトーに決めた内定先があることを理由に蹴ってしまいました。
完全に世の中をなめていました。
そして、自分の人生に真剣に対峙していませんでした。

 

 

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