少し前のことですが、私の親戚が「飲酒運転をして、私の友人の家に突っ込み、塀と玄関の一部を破壊させた上に、逃走するという事件」がありました。私と父と弟と、親戚の息子と本人とで謝りに行き、片付けをしました。
事件が起こったちょうどその時、友人の奥さんが玄関で灯油を入れている最中で、あわや大惨事の可能性もありましたが、玄関が鍵によってなんとか倒されなかったので、人的被害はありませんでした。
もし玄関に鍵がされていなかったら、、、奥様に大けがをさせた可能性もある非常に怖い出来事でした。
友人とご家族には、本当に申し訳ないことをしました。
さまざまな人を不幸にする問題行動
この事件は、飲酒運転をして人の家に突っ込んだわけなので、責任は完全に私の親戚のおじさんにあります。おじさんは、息子からものすごく怒られ、免許は剥奪され、私の父によって車も強制的に廃車となりました。
友人は怖い思いをしましたし、大切な自宅を損壊させられましたし、玄関の一部が壊れたことで寒い思いをしました。当の本人は逃走したため、被害者である友人が110番して警察に事情聴取されたり、とても不快な思いをしたことでしょう。
たくさん時間と労力を割かれたと思います。
私も時間を使って友人のお宅に訪問することになりました。父もたくさんの時間を使いました。たくさんの人が悲しみ、怒り、嫌な思いをする事件となりました。
なぜ、人は問題行動を起こすのか?
今回の件は、すでに60歳近い、正常な見識のある大人が選択した行動の結果、起こった事件です。
お酒を飲んで車を運転してはいけませんよというルールがあるにも関わらず、泥酔状態で運転をして、第三者の家を破損して上に、逃走するという非常に悪質な問題行為です。当然社会的な責任を取らなくてはいけません。
でも、どうして良識あるはずの60歳のおじさんが、そんな行為を選択したのでしょう。
何か問題が起こると人は表面的な原因を探します。
大の大人が、どうして「飲酒運転をした結果どうなるか」を考えずに、飲酒運転をしてしまったのか。お酒を飲んでいたとはいえ、人の家を損壊させておきながらそのまま放置して家に帰ったのか。狭い島でばれないことなんてないのに、後先を考えない行動をとったのだろうか。最初から飲酒運転で帰ろうと思って、車で飲みにいったのか。等々です。
表面的な原因論では解決しない
清原選手が麻薬を所持していた疑いで逮捕された時も、専門家は「悩みを打ち明ける友達がいなかったため」覚醒剤を使用したといっていました。他の問題行動を見ても、「お金が欲しいから人を殺した」とか、「借金を苦に自殺した」とか、「お小遣いがないため万引きした」とか、いろいろと言われます。
本当にそうでしょうか。
人は、一定の年齢を過ぎるとある程度の良識が生まれます。例えば、人は殺しちゃいけないとか、人の物を盗んではいけないとか、現代社会で生きる上の「一定のルール」を教育や経験によって学ぶわけです。
トラブルを起こす人は分かっているけど問題行動を選択する
私のおじさんは、もし飲酒運転をして捕まれば、免許停止か免許取り消し、高額な罰金、最悪人の命さえも奪うことになりかねないことを知っていたはずです。
清原選手だって、覚醒剤がどれだけ身体に悪いのか、覚醒剤を所持したり、使用したりしていることがばれたら、逮捕されるし、社会的な制裁を受ける上に、仕事も名誉も失い、多くの人の悲しみを作る可能性が高いことも知っていたでしょう。そして、いつか覚醒剤の所持や使用はばれることくらいわかっていたことでしょう。
問題行動を起こす人のほとんどすべての人が、問題行動は問題だということを知っていながら、「その時の最善の選択」として、その問題行動を起こします。
私は、決して人殺しや飲酒運転、覚醒剤の使用などの罪=問題行動を容認しようと思っているわけではありません。ただ、問題行動を選択した人の立場にたって、本当の原因を考えてほしいと言いたいわけです。
人の不幸のほとんどが、大切に思う人との不満足な人間関係の結果
問題行動を起こした人が、問題を起こす本当の理由は、その人にとって大切な人との満たされない人間関係から来ます。
例えば、清原選手は、離婚して大切な家族と会うことができず、寂しくて自分の人生に「幸せ」を見いだせず、自暴自棄(自分の人生・自分自身の存在に価値を見いだせなくなった)になったのでしょう。離婚や大切な人との別離や疎遠な関係、他者から満足いく承認をもらえないことなど、私たちは不満足な人間関係の中で生きて知らず知らず不幸に陥っていることもあるでしょう。
不満足な人間関係は他人事ではない
私も以前結婚していた時には、当時の妻を心から承認してあげられず、不幸を生み出していました。小手先のテクニックで言葉だけは承認している風でしたが、心の底では「もっとちゃんとした母、妻であってほしい」と思っていました。実際に承認よりも「要求」をしたり、前妻の問題行動に対して、「それは間違っている、もっとこうすべきだ」と言ったことが何度もあります。
私自身も、どんどん冷え切っていく夫婦関係に悩み、家に帰りたくなくなったり、結婚生活を送りながらも誰からも承認されないような寂しい気持ちを持っていました。
そのときは、何のために僕はがんばるのだろう?と思ったこともありましたが、幸い大切な息子を幸せにするために、問題から逃げずに進むことができました。(とはいっても、最終的に離婚して、前妻、息子、親戚に多大な苦労もかけました。)
もちろん、寂しいから、満たされないから、不幸だから何でもしてよいと言っているわけではありませんし、どれだけ苦しくても問題行動を起こさない人もいます。
罪を憎んで人を憎まず
何が言いたいかというと、問題行動を起こしたことに対して、問題行動を起こした人が責任を全うすることは必要ですが、その人自身を私たちが「責めたり、罰したり」することは効果的でないということです。
そして、本当の原因である「不幸感」を払拭してあげるためには、どうしたらよいかを考えるべきだということです。
もちろん、ほとんどのケースが簡単に解決することはないでしょう。
問題行動を起こす人が、また問題行動を起こすこともあるでしょう。
しかし、私たちがどれだけ「正しさ」を唱えたところで、本人もそんなことは重々承知で、問題を起こしているわけです。責めたり罰したりしたところで、本人の不幸感はますます募り、問題行動を起こすリスクが大きくなるのがオチです。
効果的な選択とは、問題行動を起こした人が、きちんと責任をまっとうすることと、今後問題行動を起こさないように、仕組みを整え、心を満たしてあげることだと思います。(そのためにどうすればよいかを考えることが大切ですし、うまくいかないことも多いでしょうが、何度もあきらめずにチャレンジすることが必要だと思います)
特に問題行動を起こした人が、あなたの近い人、例えば親や兄弟や妻や子供だった場合などは、一緒になって責任をとってあげて、たくさん話を聞いてあげて、その人自身を裁くのではなく寄り添うようにしてあげることが大切と思います。
実際には、近い人に対してほど、甘えがでてしまって寄り添うことが難しいですが、大切な人を大切にするということは、その人の存在価値そのものをしっかりと承認することが第一歩と思います。
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