少年時代のこと

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私は、1980年島根県の沖合い70kmに浮かぶ島、隠岐の島で生まれました。

父はタクシードライバー、母は専業主婦をしている家庭の長男でした。

とても内気な子で、自分に対する自信はなく、いじめられっこでしたが、とても我慢強い面はありました。

小学生までは、野山を駆け回り、活発に遊びまくっていました。

野球大好き、将来はプロ野球の選手になるために、毎日壁に向かってボールを投げていました。

小学3年生、夏休みに骨折をして太り、運動神経が悪くなりました。

はじめの人生の転機でした。

それ以来、より内気になり、鈍足のため、どちらかというと本を読むことが好きになりました。

小学校5年生の時には、学年でも一、二位を争う鈍足、100m走るのに23秒もかかりました。

だから、足の速い人たちが入る陸上部に、鈍足の中では唯一私だけが参加し、小学生の間に5秒タイムを縮め、100m18秒で走れるまでになりました。それでも、足は遅いほうでした。

学業優秀だった中学時代

中学校に入ると本当は野球部に入りたかったのですが、家のお金がないため、あまりお金のかからないバレー部に入部しました。

いろいろありましたが、楽しい中学時代をすごしました。

小学生の後半から学業優秀で、児童会長などもやっていましたが、中学になってからはますます顕著になって、学力テストなどは同級生120人の中でほぼすべてのテストで1位でした。

中学3年生の時には、生徒会長もやりました。

でも、根底にあったのは、父母からの承認を得るための学業でした。

唯一模範生、よい子であることが、私にとっての存在価値のようでした。

私は、自分のことが好きになれませんでした。

本当は消えてなくなりたかったけれど、ビビリなので死ねなかった、これが本音です。

そのころ、毎晩のように父が母に暴力を振るうようになり、毎晩母からの相談をうけていました。

一度は、弟と母と三人で祖母の家に夜逃げをしてその日のうちに父が迎えに着たり、父が母に暴力を振るうのをとめてもらいに1キロほど離れた祖母のうちに雪道を裸足で走っていったりしたこともありました。

苦しさとやるせなさと、一方で自分を悲劇のヒロインのような自己憐憫に陥る快感に浸る毎日でした。

中学卒業・父母の離婚・本土の高校へ

成績優秀だった私は、中学校卒業し本土(県庁所在地のある松江市)にある進学校に進みました。

ちょうど高校の合格発表の日に弟を連れて母と最後の夜逃げをしました。

そこから先、どのようにしていたかは、あまり覚えていません。

父が発狂して鍵のかかった祖母の家のドアをドンドンする音を聞いていたこと、そして岡山にあるおばさんの家と大阪にある祖父の家を転々として時間をすごしたのを覚えています。

中学の卒業式には出席しましたが、時系列で何がどうなっていたかは、よくわかりません。

そして、晴れて高校生になりました。

お金はない中の寮住まいで、奨学金をもらいながら、できるだけ親には頼らない暮らしをしました。

門限やテレビの視聴制限なんかもあり、外泊禁止だったり、タバコが見つかって2回も停学になったりしましたが、とても楽しい高校時代を過ごしました。

センター試験で失敗をしたため、夢だった都内の公立大学には進学できず、浪人もできないため、安全パイの埼玉にある公立大学に進学しました。

激貧でしたので、何とか入学料と授業料は免除してもらいました。

ここでも劣悪な環境の寮に入り、親からの仕送りはもらわないで、アルバイトをして生活をしました。

「こんな最悪な寮を出て、一人暮らしをしたい」

私は、当時学校の周りで一番お金を稼げるバイトを見つけました。

家庭教師のトライのスタッフでした。

家庭教師のトライからスタートした仕事人生

そこから私の「仕事人生」はスタートします。

毎日学校が終わってから週5日以上毎日働いて、2ヶ月で寮を出て一人暮らしをしました。

家庭教師のトライは、一部の社員は大人ですが、ほとんどのスタッフが大学生です。

しかし、お客さんはそのことを知らないので、ほとんど社会人と変わらない仕事をし、毎月20万円近くの給料をもらっていました。

一般的にみなが嫌がる仕事を私は大学生のときからやってきました。

テレアポ、路上勧誘、営業。

先輩から毎日どやされながら、追い込まれながらも楽しく毎日を過ごしましたし、成績はいつも優秀でした。

ただ、なんとなく家庭教師のトライ人生を生きている人とは交わることができない感じでした。

とても大変でしたが、大学に通いながら自活できたことは、私にとっては大きな自信となりました。

大学3年生になると授業が週に2日になったので、いまいち馴染めないトライをやめて、アデコの派遣社員として企業のコールセンターで働くことになりました。

土日を入れれば、週に5日働ける上にトライよりも仕事が楽で時給も1.4倍くらい高かったのは大きな理由です。

このころの私は、一般的なサラリーマンと同じような考え方が出来上がってきているところだったと思います。

毎日電車で通勤して、なんとなくお金のために仕事して、どうせだったらめいいっぱいやってやろうと、一生懸命働いていました。

でも、毎日が満たされることはなく、ただなんとなく毎日を過ごしていました。

仕事が終わって帰って酒飲んで眠る。

自分を好きになることができず、ニヒリズムに傾倒して、死ぬことを考えたことが何度もありました。

自分のことが好きになれないから、彼女もできなかった。

私の人生においてとても楽しい自由なときでもあり、とても苦しいときでもありました。

人生の大きな転機となったヤフーBBのスタッフ

そして、大学4年生の冬、人生を変える仕事先に派遣されることになりました。

ヤフーBBのキャンペーンスタッフです。

千葉の幕張メッセで多くのスタッフに向けて、孫正義さんの講演を聞きました。

今まで参加したことのないような大きな大ホールで、たかだか派遣社員への説明会でこんなにたくさん人を集めて話をするのかとびくびくした会場の中で、孫社長は熱く語りました。

「スケールが違う・・・。」

はっきり言って、びびりましたし、しびれました。

ビジネスってこんなにすごいのかって思いました。

何がって、孫社長が話していた、日本のブロードバンド化が遅れているので、ソフトバンクが通信革命をするんだという話・ビジョン、そのために、無料でモデムを配って、無料でADSLを試してもらって、無料でIP電話を使ってもらうんだっていう施策までです。

そして、スタッフには高額なインセンティブがもらえるということでした。

よくわからないながらも、インセンティブに惹かれたのも事実でしたが、心が熱くなり興奮したのを覚えています。

研修を終え、私はいろいろと回った中で、最終的に埼玉県の川口駅の近くにあるヤフーBBショップでキャンペースタッフとして定着することにしました。

一緒にスタッフをしていた友人が、成績を上げるのに最適な店だよと教えてくれたからです。

そのお店は、店長が開発した独特な手法で、川口駅前でモデム配りをして成果を出していました。

とても画期的なノウハウで、私も即ものすごい数字を出せるようになりました。

そして、あっとういうまにチームのリーダになることができました。

私たちのチームは、店長と私と友人でいろいろと工夫を重ねて、日本で一番モデムを配ることができ、孫正義社長から高額インセンティブをもらうこともできました。

その経験は、私にとって本当にすごい経験となりました。

目標を決めて、結果を出して、残りの時間は派遣されてくる女の子とお茶をして時間をつぶし、終わったら居酒屋に行く。

そんな毎日を過ごしました。

しかし、まだ私の頭は、その前の派遣社員時代から作られていた、一般的なサラリーマンと同じで、折角いただいたソフトバンクからのリクルートオファーも、結局すでにテキトーに決めた内定先があることを理由に蹴ってしまいました。

完全に世の中をなめていました。

そして、自分の人生に真剣に対峙していませんでした。

そして就職

大学を卒業後、好きだった「京都」か「東京近郊」で住んで働くことができるというテキトーな理由から、株式会社おたべという京都と千葉に支店をもつお菓子メーカーに就職しました。

個人経営でしたが、トヨタ生産方式を導入するとてもよい経験を積んだ仕事でした。

ただし、私は元来細かな作業などが苦手なため、製造ラインの管理者としては不適だということが見えてきていました。

また、もともと営業畑を歩んできていたので、営業マンとして働きたいというのは、入社したときから言っていました。

人生の転機|荒波のはじまりの始まり

二年間トヨタ生産方式を採用する製造現場を学び、三年目に営業部へと配属が変わる中で、京都へと転勤になりました。

いよいよ希望していた営業として活躍できると思っている中、当時付き合っていて千葉に住んでいた彼女が妊娠するという事態が起こりました。

すぐに簡単な結婚式を挙げて入籍して、彼女は京都へ移住してきました。

しかし、二人だけで子育てをすることに対する不安から彼女の自家のある千葉で育児させてあげたいと思い、大阪に本社があり希望勤務先を聞いてくれる「三洋電機クレジット」という現日本GEで当時東証一部上場していた法人金融会社に転職することにしました。

この転職もまた、ただ千葉で子育てをしたい、近畿で転職活動を完結することができ、東京近郊に配属することができる会社という安直な理由での選択でした。

出産の二ヶ月前に、千葉へと引越しを果たして、新しい仕事が始まりました。

わがままを聞いてくれた会社に対する感謝を表現するために、しっかりと業界の知識を前もって勉強して、働くようになってからは無我夢中で営業マンとして働きました。

そのおかげで、当時300人ほどいた営業マンの中で、新規顧客開拓からの営業成績でNo.1を得ることができました。

そして、かけがえのない大切な存在・息子の凛太郎が生まれました。

人生の変革を加速させた人との出会い

人生は誰と出会うかで決まるという言葉があります。私は、まさにその言葉通りいろいろな人との出会いの中で、人生が変革していきました。

三洋電機クレジットの社員だった当時、一生懸命仕事して、一生懸命成果をあげる。

これは、まさに私にとって非常に大切なことでした。

なぜなら、妻子を路頭に迷わせないために、サラリーマンとしての責務を果たす必要があると思ったからです。

毎日毎日を必死で生きているところに、新しい出会いがありました。

そして、さまざまな出会いの中で考え方が成長していきました。

一人目がグリーニングプランという太陽光発電を訪問販売で売る会社で相談役をしていた森勝美さんという初老の方でした。

一取引先でしかない私と本気で付き合ってくれて、いろいろなことを教わりました。

己の至らなさ、人生の深さを教えてくれた最初のメンターです。

その時の教えは、今でも血となり骨となり、人生のひとつの基礎・基準として私の中で生きています。

二人目がインターネットでビジネスをしているエコレグループの木下優さんです。

大手サラリーマンとして生きている中、痛風の足を引きずりながら薄暗いマンションオフィスの中から出てきた木下さんは、人生を変える出会いとなりました。

とてもアンダーグラウンドな姿をした木下さんでしたが、なぜかすごく馬があい、いろいろな人を紹介してもらうことになりました。

あまり年が変わらないのに、自営していて本当にすごいなと思い、とても大きな影響を受けました。

人生を劇的に変えた出会い

そして、木下さんに紹介してもらったのが、ライズグループの黒沢勉社長です。

黒沢社長は、人生成功塾という個人塾を開催していたので、一年ほど参加させて頂く中で親交を深めていきました。

第二の人生のメンターとの出会いでした。

思いやり深く、人生の深遠を見る考え方にものすごくあこがれ、私は人生を託しすことになります。

そんなあるとき、黒沢社長がアチーブメントという自己啓発会社のセミナーを受けて、すごく勉強になったという話しを聞き、早速私も受けてみることにしました。

そのセミナーは、人生で成功を勝ち取るための本質的な深い教えを私に提供してくれました。

人生ががらりと変わった瞬間でした。

そこから始まる人生の変革は、冬の日本海の荒波のような激しさで次から次へと私を新たなるステージへと押しやりました。

あまりにも激しい変革振りなので、書くのに時間がかかるため、ここではざくっとした概略を時系列で乗せていきます。

また、詳細は、機会があったら書いてみようと思います。

  1. アチーブメントセミナー受講から一年後に黒沢社長のライズグループへの入社
  2. 売れない営業マンとしての苦しみ
  3. ますます険悪になる夫婦関係
  4. 売れるようになった喜びと感動
  5. ひょんなことからいきなりできた借金
  6. 東日本大震災を気に最愛の息子を実家の隠岐へ預ける
  7. 妻との別居
  8. 人生をかけた働いたライズグループからの離職
  9. 隠岐へのUターン
  10. バツ一子持ち32歳借金600万円月給14万円の臨時職員としてのスタート
  11. アフィリエイトで独立
  12. 恩ある方との親交の復活
  13. 地域事業を担っての法人設立へ(2014年予定)

書ききれないくらいのいろいろなことがありましたが、これらたくさんの試練を克服していく中で、人生は劇的によくなってきました。

そして、今では、素敵な婚約者と最愛の息子と、新しい人生に向けて走り出しているのです。

確立されてきた生き方とこれからのステージへ

森相談役から学んだこと、黒沢社長から学んだこと、アチーブメントで学んだこと、ライズグループの社員として学んだこと、そしてたくさんの試練から学んだこと、さまざまなことが積み重なって今の私がありますし、さらにはこのサイトに書いてあることがあります。

どれひとつかけても得られることのできない非常に貴重な経験となりました。

この中にあるたくさんのエピソードや経験は、また折に触れて紹介したいと思います。