努力は必ず報われるは、真っ赤な嘘!

力は必ず報われる、だから頑張ろう!

・この苦労は、絶対にいつか見返りが与えられる、だから信じて耐えよう!

・楽して儲けていると必ずどこかで足下を救われるよ、だから気をつけて!

・神様はあなたのことを見ているから、あなたがよいことをしたらよいことが起こるからね!

……

こんな言葉がやりとりされることを見たり、聞いたりしたことはありませんか?そしてこのようなやりとりを、あなたはどう思いますか?

世の中を見渡して、いろいろな人と話をすると、極論、次の2つに意見が分かれているようです。

  1. 努力は必ず報われる
  2. 努力が報われるとは限らない

それぞれ、いろいろな理由や経験からこれらの論理が話されます。

努力は報われる?報われない?

努力は報われる?報われない?

例えば、ある人は一生懸命努力に努力を重ねて、目標を達成した経験を持っていたり、あるい人は一生懸命がんばって努力したのに、才能ある人にさらっと負けて目標達成できなかった経験があったり、何も努力していない良い家柄の子供があっという間に出世するのを目の当たりにしたり。

これらの経験や似たような内容が表現された本やドラマをみて、それぞれの確信【努力は報われる/努力は報われない】を深めていくことになります。では、本当のところ努力は必ず報われるというのは、真のなのでしょうか、嘘なのでしょうか。

努力が報われるか否か、最終結論

私が、研究した結果、次のことがわかりました。

努力は、必ず報われるわけではない。

これが、結論です。

これをみて、あぁ、やっぱり努力しても報われないんだ、じゃあ努力なんかしないほうがよいなと思った人がいたら、ちょっと待ってください!私は、努力は必ず報われるわけではない。と言いましたが、「努力は無駄」とも「努力しても、必ず報われない」とも言っていません。

これから、努力は必ず報われるわけではない、とういうことの真相をお教えしますので、しっかりと読んで下さい。この記事を読み終わるころには、あなたは、「効果的に努力したい」と思うようになっていると思います。

努力したら報われるは甘え

努力は報われるは甘え

「努力したら報われますか?」この質問の根底にあるのは、依存です。私は、仕事柄よく聞かれることがあります。それは、「アフィリエイトやったら稼げますか?」「どのくらい作業したら収益でますか」「秋山さんに教わったら1年後月収100万円いきますか」といった類いのものです。

つまり、「何かをする」ことに対して、誰かから「報酬」を「もらおう」としているのです。

このどこが依存なのか、わかりますか?これ、完全に「甘えて」います。

あなたの行動≠報酬

どういうことかというと、ビジネスでお金を稼ぐということは、あなたが「何かをして」その結果「誰かが価値を感じる」から「代価として」お金、報酬を頂けるということを指します。

あなたが何かをするから対価がもらえるともいえますが、あくまでも対価は、相手に価値を与えることが前提にあるのです。相手としては、あなたが何かをするから対価を支払うのではなく、相手があなたから価値を得るから、あなたに代価を支払うわけです。

この意味がわかりますか?少しややこしいかもしれません。

努力したら報われますか?の意味

努力したら報われますか?というのは、『努力をしたら、「誰か」があなたに報いてくれますか?』という意味で、誰かがあなたに報いてくれることを期待しているのです。あなたが、「相手に価値を与える」という外向きの考えでなくて、あなたの努力に対して「相手があなたに報酬を与える」という自分ベクトルの考え方で、自己中心的な考え方です。

つまり、社会に対して、甘えていて依存しているということです。

多くの人が社会に甘える原因

なぜこうなるかというと、私たちが、常に誰かに依存して許可を求めて褒美を与えられて生活してきたからじゃないかと思います。ただし、サラリーマンであれば、ある面でいうとこれでよいということもできます。

例えば、固定給のサラリーマンであれば、仮に車のディーラーで営業マンをしているとして、車を1台売って100万円もらっても、会社の売上になって、給料にはなるわけではありません。月給が30万円の人であれば、車を何台売っても給料は30万円なのです。利益が出てようと出ていまいとあまり関係ありません。あるいは、総務や人事、経理などの非生産部門であれば、やることは「上司に言われたこと」や「会社から有言・無言で求められること」です。一生懸命取り組んで、上司が気に入れば、少しずつですが、月給は上がっていくと思います。売上に対して、給料が比例するわけではないのです。これは、ある会社に所属して、会社の仕組みの中で、取り組む場合に生じることです。(学校教育も似た側面がありますね。)

努力は、主体的に行うもの

しかし、基本的には、努力というのは、わたしたちの人生の中で主体的に行うことで、人生を支配しているのは自然の理です。社会であれば、経済の論理があります。誰かが管理する仕組みの元で、誰かに与えられて、誰かの意図の元で営まれているものではないのです。

会社のように上司がジャッジして温情をかけてくれるわけではないです。実社会では、自分で自分の報酬は作り出さないといけません。人生も同じで、自分で自分の報いをつくらないといけないのです。

努力したら報われますか?ではなくて、努力して、自分で自分に報いる、これが正解です。

努力は必ず報われる???

努力は必ず報われる???

本当の意味で主体的になることができれば、本気で努力して自分に報いることができるまで諦めずに取り組めば、結果として努力は、報われることになります。

そうなんです。

自分で自分が求めるものを手に入れるために効果的に努力して、報いを得るまで取り組み続けることができたら、努力は必ず報われることになるのです。

その前提がなく、努力は報われますか?と言われると、「それはわからない」ということになってしまいますし、そんな依存や甘えの姿勢では、「報われないことが多くなる」と思います。

言っていることが真逆に見えますか?笑

効果性の問題

さらに言えば、主体的に努力して目標に向かおうとしても、効果的でない努力をしても報われることはありません。

例えば、ものすごく極端な例を出します。あなたが体重を10キロ落とすという目標を立てたとします。そして、毎日10キロランニングをして、毎夜体重計にのって数値を計測する努力をします。

けれど、ランニングの後にコカコーラを500ml飲んで、アイスとケーキを食べるとするならば、おそらく体重を落とすことはできません。どれだけ毎日10キロ走る努力をしても、食事内容を見直すという必須の努力を怠れば、当然結果はついてこないわけです。このように、努力は努力でも、「効果的に努力ができるか」というのは非常に大きな点となります。

効果的な努力といのは、目標を達成するために、すべき努力のことです。

従って、目標が変われば、効果的な内容も変わることになります。

なので、例えば、ダイエットの目標のためには、ケーキを食べることは効果的でないですが、優秀なパティシエになるという目標のためには、さまざまなおいしいケーキを食べるのは効果的な努力になります。このように、目指すことが何かによって行うことが効果的かどうか別れることになるのです。

努力してなりたい自分になろう!

努力してなりたい自分になろう!

私が言いたいことは、努力しても無駄だということではありません。

むしろ逆で、努力してなりたい自分になろう!と言いたいです。

そして、なりたい自分、「為したいこと」が明確であるならば、適切に努力することができて、諦めなければ、必ず努力は報われます。つまり、自分で自分の努力に報いることができるということです。

でも、なりたい自分、為したい目標があっても、「努力したら報われるのだろうか?」と他力本願に考えている人は、ほぼ確実に努力は報われません。目標やなりたい自分の理想像のレベルが高いほど、今との差が激しいほど、その傾向性は健著となります。

だから、努力は、必ず報われるわけではない、というわけです。でも、あなたが本気で効果的に努力することができて、立ちはだかる試練や困難に打ち克って乗り越えていけるなら、あなたの努力は、必ず報われるということができます。

努力が報われる3つのポイント

まとめると努力が報われるためには、次の3つが必須になるということです。そして、これらのいずれか1つでも欠ければ、努力は報われないことになります。

  1. 主体性
  2. 継続性
  3. 効果性

あなたらしい人生を

あなたらしい人生を歩んで下さい

さぁ、あなたはこれからどんな人生を歩みたいですか?あなたが人生で為したいことは何ですか?あなたが達成したい目標は何ですか?

あなたの将来を思い描きましょう。

そして、その目指すべき一点に向かって、効果的に努力を重ねてください。目標点に到達するまで諦めずに努力を続ければ、あなたは必ず報われることになります!

社会への甘えを捨てて、自分の力で努力して、努力に対して報いてください。

余談:甘えについて

※私は、誰かに甘えることを悪とは思いません。人は、一人では生きていくことができず、いろいろな人に甘え甘えられて、助け合いながら、生きているからです。

また、人はそれぞれ強みと弱みがありますので、他者の力を借りることで、自分一人では達成できないような目標も達成することができます。なので、誰かに甘えることは決して悪いことではありません。

私がここで、依存や甘えという言葉をネガティブな意味で使っているのは、「主体性のない場合」です。主体的に甘えたり、依存したりするのは、ひとつの方法として効果的な側面があると思いますが、主体的ではない依存では自分の人生を歩むことはできません。要するに、主体的であるのかないのか、これが重要だということです。